写真紀行・折々の旅
 『京まんだら』(上)の京都を歩く
 Walking Kyoto in the Novel Kyomandara, vol. 1
 
 

瀬戸内寂聴『京まんだら』上巻(講談社文庫(新装版) 2019年) 

  本 文 リンク
 ⇒ で示したリンク先は「写真紀行 折々の旅」「歌舞伎の舞台名所を歩く」
 「平家物語の舞台を歩く」等で
既にアップしてあるもの、マップと写真は
 そちらをご覧下さい。(一部工事中)
  
浄夜        「よろしゅうおしたな、やっぱり、おけら詣りからうちへまっすぐ帰らはってて」
 客たちが無言で、荘重な、如何にも年を送るにふさわしい鐘の声に、しんとうたれている間に、女将はいつのまにか、座敷の方へ移っている。(p. 8) 
◆『広辞苑』には「おけら祭」として「京都八坂神社で大晦日から元旦にかけて行う神事。鑽火(きりび)で朮を交えたかがり火を焚き、参拝者はその火を火縄に移して持ち帰り雑煮を煮る」とあります。
⇒ 八坂神社
   
 
「稚ちゃんは、こんなに可愛らしいのに舞妓さんには出さないんですか」
 何でも知りたがる菊池恭子がまた質問する。 
「へえ、祇園町は、家の娘を出さはらしまへんねえ。そういうしきたりどす。



 

最も祇園らしい通りの一つ花見小路

祇園白川(宵桜)
 先斗町は、お茶屋はんで、娘さんがあったらどんどん出さはりますなあ。それも、どうということのうて、昔からそういうしきたりでっしゃろか」(p. 22) 先斗町
先斗町歌舞練場


先斗町のお茶屋 
 最後に大垣と夜を共にしたのは昨年の節分の日であった。いつものように「竹乃家」の最後の客を送り出してから、芙佐は鹿ケ谷の大垣の家に向った。正門はもう閉ざされていたが、芙佐が鍵を分けられている通用門から入り、庭に廻って、大垣の居間にしている茶室造りの離れの窓を叩いた。(p, 28) Cf. 俊寛僧都忠誠之碑
坂道            「これが三年坂です。こっちの方が二年坂いいます」
 二つの坂の境目に立って教えているのは稚子だった。(p. 33)
産寧坂 

三年坂から二年坂へ曲がる標識  
「ゆきむら」は二年坂三年坂の境目を右折して道路に面している。(p. 33)   

二年坂を上りきったところ、
左は三年坂で、「ゆきむら」は右にあった。 
 二年坂はなだらかな坂道で、石畳だった。二十糎(せんち)四角くらいの敷石は、すっかり摩滅していて、靴の裏にもあたりが柔かい。道の両側は、旧くからの古道具屋や陶器屋や、土産屋が軒を並べている。どの家もひっそりとしていて、けばけばしい看板などはかかげず、客が来ようが来まいがどうでもいいというゆったりした構えだった。(p. 33)

二年坂
 三年坂はそれより急な坂に、石段がついている。一つの石段の高さは低いが、巾が普通より広く一足では上り難い。やはり二年坂の敷石のように四角な石畳の石段であった。巾が広いのに段の高さが低いので、相当な急坂がなだらかに見えるのは目の錯覚だろう。 
 ここも石段をはさんだ両側には、旧めかしい店が並んでいる。(p. 34)
「ええ、京都の中でもこのあたりは、ほんまに歩くのにいいとこです。この坂の下を高台寺下まで行くとまたうおろしおすけど」
 律子は清水寺へ行って見たいという。
 三年坂を上りはじめると、雪がますます濃くなり、石段の上はたちまちしっとりと濡れてくる。(略)
「気いつけとくれやす。この坂でころぶと三年後に死ぬいういいつたえがあるんどっせ」
「えっ」
 律子の足が思わずすくんだ。
 それで三年坂といういうのだとか。その縁起なおしに、転んでも死なないというまじないのひょうたんを売る店がでているのだという。
「そやけど、和同三年にこの坂が出けたから三年坂というんだという人もいやはるし、産寧坂がほんまや、清水さんの子安塔(こやすのとう)への近道なので 産寧坂いうのやという説もあるそうです」
「稚子ちゃんは名ガイドね」
「お客さんをなんべんか案内しているうちに、同じこと訊かれるんでつい、覚えてしまいました。この石段、何段あるかわかりますか7?」
「さあ」
 二人は上りつめたところで下を見下した。
「三十段くらい?」
「四十六段」(p. 37) 







高台寺
⇒ ねねの道
⇒ 清水寺
 
三年坂
 清水の坂道へ出ると、そこはたちまち世界が一変してしまう。道の両側ひしめき並ぶ土産物屋は、どの店も、派手な看板をかかげ、毒々しい色の上産物を並べ、ウィンドウを光らせ、温泉場のメインストリートのようであった。三年坂の上り口に七味とうがらしの店があって、そこが清水坂の中心になり、そこから上ドに、坂は急勾配でのびていた。
 その坂道は、ひっそりした三年坂とはちがって、清水への初詣りの人で賑っていた。
 歩き難いほどの人出で道が埋まっている。
「わあ、すごいのね」
「平安朝からの観音さんですさかい」
「稚子ちゃんも信心してる?」
「試験の時だけ」
 稚子はまた首をすくめてちろっと桃色の舌を出す。(p. 38) 
 両側の土産物屋は、清水焼の陶器屋や、京人形、置物、陶器と何でも並べた店などがびっしり軒を並べ、元旦から店開きしている。(p. 39) 
 
清水坂  
 坂道がつきると、いきなり視界が開け、日の前にどっしりした山門が答えていた。門前は広場になっているのでせまい坂道をたどってきた効果があがり、もうそこへ着いただけで、気分が爽やかになる。門は更に石段の上に建っているのでいっそう荘重にみえる。(p. 39)  
 
清水寺山門  
 門をくぐると線香の匂いがただよいはじめ、風は急に冷くなる。本堂は暗く広く、奥深い。形通りに蝋燭をあげ、律子も稚子も殊勝げに並んで掌をあわせた。祭壇の前の床が広く、大広間という感じがするのを見ていると、律子は王朝の美女たちが、そこに参籠した姿まで想像されて、目の奥が華やいでくる。(p. 39)
 見上げると本堂の軒下に白い大きな額がかかげられていて、観音経の一部が書かれていた。
 「衆生困厄を被って、無量の音、身を逼んに、観音の妙智の力、能世間の音を救う。神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の読ろの国土に、刹として身を現ぜぎる事なし。種種の諸の悪趣地獄鬼畜生、生老病死の苦以て漸く悉く減せしむ、真観清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観あり、常に願い常に謄仰すべし」
 律子は口の中ですらすらとそれを誦してみた。するとすぐ「むくしょうじょうのひかりあって、えにちもろもろのやみをはし……」という次の経文の旬が口をついて出た。七年前死んだ祖母が、朝晩あげていた観音経を、小さな律子は祖母の回真似をしていつのまにか覚えてしまったのだ。(pp. 39-40)
  
 清水の舞台には、見物の人がすでに欄干にびっしりしがみついて、はるか下方に拡がる京都の市街を見下していた。(p. 40)
 「この清水さんのあたりは、あんまりかわりまへんなあ、ここから見る山の眺めも音羽の滝も……はじめてきた時と……」
 「もう大方五十年も昔のことや」
 舞台は高い脚組の懸崖の上に建っているので、欄干から見下すと、山の緑が深い渓をつくってはるか目の下に沈んでいる。鳥辺山と西大谷のなだらかな山のあわいから広がる五条から七条へかけての町の上にも淡い雪がかかり、パステル画のように柔かな風景になっている。(pp. 41-42)
 
 丁度、舞台からの眺望の真中に、京都タワーの白い塔がそびえている。
「あのタワーも、最初はずいぶんとけったいなものが建ちよったと気しょくが悪かったけど、こうしてみると、いつのまにやら景色の中にとけこんできたなあ、これも年月かいなあ」
「そいでも、やっぱり何やら品がのうてしっくりしいしまへん。わたしはきらいどすわ」
 律子は自分の前に立っている老夫婦の話にそれとなく耳をかたむけていた。(pp. 40-41)
 

京都駅前「京都タワーホテル」の屋上に建つ京都タワー 
「あのちいそうみえてるあの塔は何だす」
 老女が甘えるようなやさしい口調で訊く。
「あれは東寺の塔にきまってる」
「へえ、そやかて、東寺の塔があない小そうおますやろか。昔はもっともっとどっしりしてえしまへんどしたやろか」
「まわりに高いビルがいっぱい建ちよったからなあ、京都もやっぱり変っていくよ」(p. 41)
 
東寺の塔 
 稚子は律子をうながして舞台をおり、音羽の滝の下を通りぬけ、山道をたどり、子安の塔の前につれていった。こぢんまりとした二重の塔はいかにも子供をさずからしてほしいと祈るにふさわしいようななごやかな表情を持っている。丁度子安の塔のあたりから見ると、舞台が真正面に見え、雄大な脚げたが樹々の間に浮び本堂は空中に漂っているように見える。(p. 42)  
子安の塔 

子安の塔 
「うち、やっぱり、熱烈な恋がしてみたいわあ」
稚子は胸に手を組んでうっとりして表情になる。
「おませ」 
「あら、うち、もう十七やわ、鳥辺山心中のお染は十七、半九郎は二十一でしてん、うちかてもうりっぱな恋愛適齢期やわ」
鳥辺山心中は創作でしょう」
鳥辺山のお寺の中に比翼墓がありますねん。ほんまの話があって、それから歌やら、芝居やらが残ったんとちがいますか」
「へえ、そうなの、しらなかった」(p. 45) 
◆【注】二人の比翼塚がある「鳥辺山のお寺」は本寿寺とされているが、行ってみると、ご住職が門前にある「この寺にお俊伝兵衛之墓あり」と刻まれた石碑と、この二人の墓へ案内して下さった。それは祠のようであった。そして『京都見聞記』(法蔵館)などの文献を見せてくれ、比翼塚などは最初からなく、いつからか誤って伝えられてきたことに困惑しているとのお話であった。 
 稚子は、明らかに誤った情報を読んだか聞いたかして話したとみえる。
 ちなみにこのお寺には三代目中村歌右衛門(墓石の下には「二代富十郎」とあり)、尾上新七のお墓がある。 






 


本寿寺と「此之寺にお俊伝兵衛之墓あり」と刻まれた石碑  
〈出版社の女社長は〉
「何でも南禅寺の方に、今年御本を書いておもらいやすえらい先生が住んではるとかで、お玄関まえ御年賀にいってくるいわはって出かけられましてん、…」 (p. 47)

⇒ 南禅寺
 まきが雑煮の椀を運んできた。白味噌仕立ての京風雑煮を、律子が一番喜んだ。(p. 49)   
 上賀茂へ行きたいといいう菊池恭子がいうのに敏子が同行することに決り、関まおみだけは、自由行動をとりたいという。(p. 52)   ⇒ 上賀茂神社 
「どちらでっか」
 運転手が訊く。
「嵯峨へ……」
「嵯峨はどちらへ」
野の宮へやってちょうだい」
「へえ」(p. 55)
野宮神社
 五條の大橋を渡る時、川上を眺めると雪をいだいた北山がくっきりと青空をきりざき、鴨川は滔々と水があふれて目を拭われるようなすがすがしい眺めだった。  ⇒ 五条大橋と扇塚
野の宮       畑の横の道端にうずくまっている石仏たちの、目も鼻もおぼろにかすんでしまった表情のなごやかさと、その仏たちのおもいがけない人肌めいたあたたかさを、掌を導いて教えてくれたのも彼だった。(p. 64)
 
大原の石仏 
 長沢の提案で、わざと、車をやめ、その日、ふたりは電車で嵐山に行った。
 四条大宮から乗った電車の中も、気恥しいほど乗客がいなかった。車窓に降りつける雪を見ていると、自分たちが二度と帰って来られない遠い旅の途上にいるような気がしてくるのだった。
「かたびらのつじ」などという駅名も、物語りめいて、なおみは思わず車窓から目を凝らして読みなおした。(p. 65) 
⇒ 嵐山  
 
 徒然草にも野の宮のことは書かれていて
「斎王の野の宮におわしますありさまこそおぼえしか。経仏など忌みて、なかごそめ紙などいうなるもおかし。すべて神の社こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もただならぬに、玉垣しわたして、榊にゆうかけたるなどいみじからぬかは」
 というくだりは、学生時代暗誦したのをまだ覚えている。(pp. 65-66) 
◆[現代語訳](瀬戸内寂聴訳『源氏物語』)
 野の宮の、もののあわれが、身にして想像されたのは、何といっても源氏物語の「さかき」の巻をよんだ時からであった。(p. 66) 
 源氏物語の「さかき」の巻の書きだしは、斎宮と共に、野の宮にこもり、身を潔めている六条御息所の許へ、今更ながら、みれんを覚えた源氏が訪ねていく場面からはじまっている。
 みはるかす嵯峨野の秋草の花はもうみな、おとろえてしまって、枯れ枯れの浅茅が原に虫の音と風の声がとけまじり、その中に、何の曲とも聞きわけ難いような音楽の音色が、野の宮の方から聞えてくる。
 その趣き深い秋の嵯峨野を、美しくやつした源氏が、十数人の随身をしたがえてふみわけて行く姿は絵のようになおみの目にも思い描かれるのであった。
 さて、源氏の訪れた野の宮は、つつましい小柴垣で境内をとりめぐらせ、中には、あちこちに板ぶきの家が、ほんのかりそめに建っていて物わびしい。黒木の鳥居などは、如何にも簡素だけれど、さすがにどことなく神々しく仰がれて、恋の訪いなどは気がひけるような感じだと描写してある。(pp. 67-68)
野宮神社  
「いつか二尊院へいっただろう、覚えている?」
「ええ、覚えているわ。森閑としたお寺、楓だか紅葉だかの美しい……上の方にお墓のたくさんある」(p. 73)
⇒ 二尊院
〈元旦に〉
 ふたりは野の宮を出て、落柿舎の方へ歩いて行く。このあたりにくるとまるで人影はなく、ひっそりとしていた。(p. 74) 

 

落柿舎 
川の
ほとり
         
 私は京の町を流れるどの川も好きだけれど、たったひとつ選べといわれたら、上賀茂の神社の境内を流れて、東流し、社の外へ出ては、昔、神官たちの家居だったという社家町の上塀に沿って流れつづける明神川をあげたいと思う。
 上賀茂神社の境内のこの川の流れは、如何にも神域の穢れを清める川にふさわしく、底深く澄みわたり、塵ひとつ浮べていない。水量はゆたかで、流れているというよりいずみ湧いているような感じが深い。川のほとりにたって水の面を覗きこむと、境内の樹々の緑や紅葉が、季節々々の色を落して、流れを鏡に染めあげている。
 神具を洗うのだというこの川はまた、五月十五日の葵祭には、選ばれた斎王が、古式通りにここへ来てみそぎをする川でもあるそうな。
 千古の昔の風習を伝えて、清らかな青若葉のような乙女を選み、王朝の十二単をまとわせて、神域の川にみそぎさせるというのは、何という美しい光景だろうか。(pp. 86-87)


社家町と明神川


社家町と屋敷の前を流れる明神川
  市中を離れた川なら、どうしても貴船川について書きたいし、…。(p. 94) 

貴船川(貴船駅近くで) 
 何といっても疎水の最も美しい時は春の終り、漸く春の挽歌のように疎水べりの桜の老樹から、風もないのに花が絶えまもなく散りそそいで、疎水の面が落花で雪のようにおおわれている時であった。(p. 94)
 気がついたら疎水べりの道に立っていた。(p. 101)
 蹴上インクライン
 疎水といえば、南禅寺の水路閣の上の流れも忘れられない。(p. 102) 
 若王子から銀閣寺までのいわゆる哲学の小道という名で呼ばれている桜並木の疎水の美しさを知っている旅人のうちにも、南禅寺の水路閣の上を走りつづけている水の清冽さを目にした人は少ないのではないだろうか。(p. 103) 
 その若者が、いいところへ案内しようとつれていったくれたのが水路閣の上だった。(p. 105)


哲学の道
 冬の貴船、真夏の貴船、雨の貴船、恭子にはそれぞれの思い出があったがだまっていた。
「和泉式部が夫婦げんかして、ここへこもってしまったのよ。昔の女は、そういう形での抵抗がせいいっぱいだったのね」
「でも、夫が迎えに来たじゃありませんか」(p. 108)
貴船神社
 私は偶然、通りすがりに、この石橋に立っているまだ若い白川女を見たことがあった。おそらく母の代からの得意先なのであろう。今、花を届けた帰りなのか、白川女は、頭の上に花籠をのせたまま、石橋の上に立ちどまり、流れの中に目を落している。紺絣に、赤欅、白い手甲、脚絆といういでたちが甲斐々々しく、手拭のかげになった両煩が清らかで、思わずこちらも歩をとめてしまった。様々な折々に京の町で白川女には行き逢っているが、私はこの社家町の川のほとりにたたずんだ白川女くらい、しっくりと風景にとけこんだのを見たことはない。(p. 87)
◆「白川の里は比叡山の上り口、京と近江をつなぐ山中越の古い街道近くにある。この付近は花畠が多く、京へ花をここから提供していた。白川女は、毎朝早く頭に花を載せて京の町を売り歩く」
(徳力富吉郎『版画 京都百景』(保育社, 1975)p. 24)
 

徳力富吉郎「白川女」
 上賀茂名物のすぐきの桶がこの流れ〔=社家町を通る明神川〕にひたされているのもよく見かける。(p. 87)   ⇒ すぐき
 好きな御池せんぺいが菓子皿にのっている。(p. 89)
◆亀屋良永の一品で、ラベルは棟方志功の版画をあしらった包装紙を用いている。[外部リンク]亀屋良永
 
 
(本能寺のはす向い、アーケードの入口にある)
冬とも
しび
      
 「うち、今日、万陽軒へ二時頃這入ったらなあ、ちょっと、あそこで待ち合わすお客さんがあったさかい、ほしたらなあ、…」(p. 135) 
◆祇園にあるフランス料理のレストラン。[外部リンク]萬養軒
 
花は紅     別の部屋に、いづうのおすしがとりよせてあった。すしやの、朱塗りの蓋つきの大きな丸重のなかに、鯖ずしや雀ずしが入っている。(p. 182) 
◆祇園にある鯖姿鮨専門の店。[外部リンク]いづう
 
娘たち   ―  
浮草      「実はなあ、昨日のことや、うちが清水さんへ朝詣りしよう思うて、六時起ききしましてなあ、…」(p. 239)  ⇒ 清水寺 
賑やかな町の真中で電車を降りた。四条河原町というところだと清子が教えた。そこから山の見える方へ道をたどると彼方に橋がある。四条小橋だとまた清子が指さして教える。(p. 232)

 
 小橋を渡って左に道をとり、川沿いの道をしばらく歩く。高瀬川と教えられたその川は、浅い流れで、底が見えている。水は清らかに音もなく流れつづけていた。清子の店は高瀬川にむかって、そのせまい間口を開いていた。(p. 232)

木屋町通りを流れる高瀬川
 七月に入ってまもない頃、女将の使い、四条ぎわの料亭のへ出かけた。鴨川ぞいの料亭や席貸屋では、夏になると競って床を河原にはりだし涼をとる客を迎える。夜になると、にはぼんぼりの灯がともり、客や芸者や舞妓の姿もその灯に浮んで、橋の上や河原から眺めると芝居の舞台を見ているように情緒があった。(p. 243) ⇒ 納涼床
 芙佐は四条大橋の手すりにもたれて、川の風景を眺めた。はじめて京都に来た日、この大橋の上から眺めた風景の美しさを忘れはしない。(p. 243)  
 
   
四条大橋よりの眺め 
花と        個人タクシーの運転手は初老の落ち着いた男だった。敏子が泉涌寺や、東福寺へゆきたいといいうと、すぐ車を川沿いに走らせながらいった。
「お客さんは相当京都へ来てられますなあ」
「え、どうした」
「いや、泉涌寺や、東福寺へいけといわはる人は、一、ニヘんくらい京都に来られた人には少のうおまっせ」(p. 254-55)
 泉涌寺の方が早く閉まるから先に行った方がいいというので、運転手まかせにする。博物館智積院の前を通りすぎると、東山七条から新熊野泉涌寺道、東福寺とつづくこの電車道は何となくざわついた賑やかさで落ち着きがない。(p. 257- )
⇒ 泉湧寺
⇒ 東福寺


京都国立博物館
⇒ 智積院
  
名勝庭園
⇒ 新熊野神社
「この頃は、名所というと、もうわんさと人が仰山おしかけてどないもこないもならしまへん。嵯峨がそうでっしゃろ、大原がそうでっしゃろ」(p. 255)   嵯峨野
⇒ 大原
「そうね、この間、大原へいってがっかりしたわ、ずいぶん。寂光院の前に何だかお店が立並んでねえ、そら、便利といえば便利かもしれないけど、京都も本当に観光に力を入れるつもりなら、ああいうもの許可すべきじゃないわね。知事さんも川ぞいの道ばかりきれいにしてないで、いっそ、あそこまで気を使ってほしいわ」(p. 255)   寂光院  
「お客さんは京都でどこが一番好きどすか」
「そうね、よく来るわりに方々へいってないんですよ。西山あたりは案外人が行かないで好きだけど」
「へえ、それはいよいよ通ですなあ」
「花の寺のね、桜をみたいと思って、何年もあこがれてるくせに、どうしても桜の時にめぐりあわなくてね、そのかわり、燃えあがるような白木蓮のさかりに行きあわせたことがありますよ」
「はあ、勝持寺というのが本名どすけど、花の寺いう方がもう通りがようりましたなあ、そうでっか、あの寺に白木蓮がありましたか、わたしの方がこれは教えてもらいますなあ」
「それはきれいなものなの、白い炎が燃えてるようよ。それから、あそこの落椿の時もゆきあつたけど、それも見事でしたよ、まるでビロードの赤いカーペットをふんでい」
「あ、椿の方なら、わたしも知ってます。あれもええもんどすなあ、ほなら、お客さん、、今年はぜひ花の時おこしやす。あと、十日で、花は満開になりまっせ」(pp. 256-57)







勝持寺
今熊野のあたりの土は蛇ヶ谷といいましてなあ、土質が陶器つくるのにええのやということで、このあたりは陶工の多いところです」(p. 257)  ⇒ 今熊野神社
Cf.  新熊野神社
砂時計   貴船明神の下で車を降り、ひとり石段を上る。今朝から誰ひとり詣った人もないとみえ、雪のあとには鳥の足跡もついていない。
 踏みだすのが惜しいようなふっくらとした雪の上に足をふみだすと、草履が沈みこみ、雪の冷さが足袋をとおして足先にしみこんでくるc鳥が落したのか、ふいに梢から落ちてきた雪が衿からしのびこみ、首筋をすべり背に落ちていく。とけた雪のつめたさが背筋を伝い、身震いがわく。
 流れの音だけがひびく明神の境内で柏手をうつと、その音が雪の中からこだまを呼び私を包みこんでくる。(p. 298)
貴船神社
孔雀    西大谷廟の塀に沿って細い道を上ると、鳥辺山に出ていく。(p. 311)
 西大谷廟の塀がつきると鳥辺山の墓地がひらけている。三万基を下らないといわれている墓石がびっしりと群り林立して、朝日を白くはねかえしている。(p. 313)
 この鳥辺山の墓地を「儒者捨て場」と京の人は呼んできたという話をしてくれたのは中嶋洋平だったと芙佐は思い出す。(p. 314)
 鳥辺山といえば、芙佐は芝居の鳥辺山心中がすぐ浮かぶのだが、洋平から教えられて、そこが平安朝の昔から、死者を葬る場所だったと知った。(p. 315)
 洋平は、儒者の墓を詣ったついでに、芙佐をつれて足をのばし、豊国廟へ詣り、その参道を上りつめた台地を右にとって、崖の端に立たせた。
 眼下にはU字形にえぐりとったような山の窪地に人家が密集して、その向うの緑の山の裾に泉涌寺の屋根が見えている。
「このあたりが、昔の鳥辺山なのだよ。今はだんだんその位置が移って、さっきのところになってしまった。昔の物語によく、鳥辺山で葬送の煙が立つとあるのは、とあるのは、ここのことなのだ。今はとてもそんな跡とは見えなくなってしまった」
 洋平は芙佐に噛んでふくめるようなそんな教え方をした。(pp. 315-16)













⇒ 泉湧寺

「鳥辺山の墓地」(實報寺)
 
鳥辺野
 洋平と、はじめておけら詣りをしたり、新年を迎えられると楽しみにしていた芙佐の望みは、〔彼の妻の〕千世子の出現でたちきられてしまった。(p. 329) おけら詣り☝
別れ霜        時々、思いがけない時に、呉服屋がいつのまにかみたててくれてあった着物をとどけてくる。えり萬とか小大丸とかの着物は、おそらく、それひとつ買いに入ったものではなく、何人かの女に洋平が思いついた時、 一時に贈ったものかもしれないと、勘ぐりはするが、芙佐自身の好みよりも洗練されたそれらの着物には、洋平の心がこもっていて、身につけた方が、畳んでみるより、ずっと着ばえのするものばかりであった。
「一流のものをつけておきなさい。一流の女将になるには下着から頭のもの、足袋にいたるまで一流をつけておかなければだめだよ。そういうものの雰囲気が自然身にそなわってきて、何を身につけても着物負けしない中身が出来るのだ」
 洋平に教えられた衣裳哲学を、爾来、芙佐は身にしみて守っている。(pp. 351-52)
◆「えり萬」は京都老舗の「ゑり萬」、「小大丸」は京染・呉服店の「小大丸屋」
 
 男に愛されたことも、男をふった覚えもあったが、まだ愛している男から捨てられた想いはなかった。
「あんまりどっせ、せんせ、あんまりどっせ」
 芙佐は鴨川の河原で土手を叩いて泣いた。
 捨てるなら、捨てる理由をつげてほしかつた。別れなければならないなら、ことわけて理由をつげてくれれば納得し難くても納得したであろう。(p. 355)

賀茂川(上左)と高野川(右)が加茂大橋のところで合流して、鴨川となる(下)
「罰が当りました、罰が当りました」
 芙佐はさして信仰心があったわけでもないが、その時ばかりは清水に願掛けをした。商いが終って深夜、ゆきむらへ帰ってから、躯を清め、真夜中清水観音へお詣りにいく。(p. 356)

清水寺 
塀の
青草






























  
 京都なんて、旧い都は、手れん手くだを心得た魔女の魅力みたいなものがあって、捕えられた人たちには十人十色の表情をみせるのではないかと思うの、京都という魔女の魅力を正面から描いてくれてもいいし、その不用意な背姿の影を撮ってくれてもいいし、私たちは、それを一冊の本にまとめあげて、読者それぞれの眼鏡に勝手に写しとってもらえばいいのですから」(pp. 365-66)  

 塀ごしに、まだ町なかよりも固い桜の書をいっばいつけた枝がのびていた。土塀はところどころ、傷んで白壁がおち、中から黄色い地肌がのぞいている。ふたりのとどまっている右側に、細い流れの溝があり、その上に またぎの上橋がかかり、奥に、石畳の道がのびていた。道の両側には竹を編んだ光悦垣が飾っている。(p. 371)
 

光悦寺の光悦垣 
地蔵    「どないしたらよろしいんどす?」
大市すっぽんでも誘ってみるか」(p. 405)
 宮回の招待という形で、芙佐は大市を場所に選んだ。米田と桜井
みつるが大のすっぽん好きだったからだ。宮口もきらいな方ではない。
「勝手に、まるにさしていただきましたけどよろしおすやろか」
 京都ではすっぽんのことを「まる」という。芙佐は一応米田に向をただした。
「ああ、結構だよ」
 何でも、本格的なものが好きな米田は、すっぽんといえば、すっぼんだけで、鍋の中に野菜ひとかけらもいれない大市の料理を好んでいた。(p. 459)  
⇒「大市 公式ホームページ゙ 
 
   えり萬でつくった長襦袢にはこれもえり萬の塩瀬(しおぜ)の衿がつけられている。(p. 409) えり萬☝
十三夜   ―  
悲願   ―  

      下巻

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